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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

ルームメイト 2

 ピーピーという電子音が、静かな部屋の中に響いた。洗濯機が止まったのだ。
 電気製品の中で、全自動洗濯機がいちばんの働き者だと思う。セットさえしておけば、ほっといても洗って、ゆすいで、脱水までしてくれる。たとえその間、持ち主である私が外出していようと、寝ていようと、あるいは死んでいようと、だ。 融通は利かないけれど、その従順さは愛おしささえ感じてしまう。この次、男を作るときは、全自動洗濯機のような従順な男にしよう。
 馬鹿なことを考えながら、タンスからブラとTシャツとジーンズを出して身につけ、左手首に、男物の腕時計をはめた。もちろん、北嶋の残したものではない。これは弟からのもらい物だ。丈夫なので、もう十五年近く使い続けている。我ながら、物持ちのいい女だと思う。
 バルコニーにある物干し竿に、洗濯物を掛ける。洗濯日和のいい天気で、街路樹のプラタナスの緑が、二日酔いの目に痛いほどだった。
 洗濯物を干し終わると、部屋中に散らばっている服の仕分けにかかった。クリーニングに出す服と、ハンガーに掛けてタンスにしまっておく服を分ける。それを済ませただけで、かなり部屋の中がすっきりしたように見えた。
 その次には、掃除機を出して部屋中の埃を吸いまくった。掃除機は、洗濯機とは違い、何もかもこちらで動かしてやらねばならない。全く手の掛かるやつだ。しかもやっかいなことに、すぐコードか引っかかったり、ホースがねじれたりして使いづらい。おまけに、安物を買ったせいか重い。
 テーブルの足や、部屋の敷居などにさんざん本体をぶつけながら、何とか掃除も終わった、ということにした。この上、拭き掃除をやる気力はない。
 掃除、洗濯を終えてみると、もう昼に近い時間になっていた。
 朝食もまだだったことを思い出し、財布の入ったリュックをつかんで買い物に行くことにした。シンクの洗い物は、そのままにして。

 駅のすぐ近くにあるショッピングセンターまでは、ちょうどいい散歩コースだった。この辺は交通量も少なく、街路樹などの緑も豊かで庭の美しい家も多い。ちょっと足を伸ばせば、大きな公園もある。
 この町に住むことに決めたのは、北嶋のせいだった。
 彼は地下鉄の終点駅から、さらにバスで十五分ほどかかる郊外の新興住宅地に住んでいる。仕事帰りに、地下鉄を降りて私の家でささやかな逢瀬を楽しみ、それから家に帰るのが、月曜から金曜までの彼の日課だった。だから、せっかくの美しい町並みも公園も、彼と一緒に歩いたという思い出はない。そして、私はそのことをそれほど悲しいとも思ってはいなかった。明るい陽射しの中、彼と並んで散歩するよりも、薄暗い部屋で彼の温もりを身近に感じることのほうが、私にとっては大切なことだったからだ。
 ショッピングセンターに入ると、いつもの習慣で二階の本屋に向かった。特に買うものがなくても、本屋では楽に一時間ぐらい時間が潰せる。時間だけはたくさんある今の私には、ありがたい場所だ。
 ファッション誌をぺらぺらとめくっていると、どこからか視線を感じた。顔を上げると、マンガ雑誌を手にした中学生の女の子と目があった。
 まだ一年生なのだろう。スカートの長さも中途半端で、髪もふたつに分けて結んでいる。頬はぷっくりと赤くて幼い感じだが、足だけはすらりと長い。成長期に特有のアンバランスさを、窮屈そうに制服に押し込んでいる感じだ。
 そんな中坊が、じっと私のことを見ていた。いや、見ているなんて穏当なものではない。あれは、ガンを飛ばす、というやつだ。私のことを、不潔なばい菌でも見るかのような目つきで睨みつけている。
 ――ああ、そうか。
 一分ほど彼女とにらめっこしていたら、納得がいった。アレは北嶋の娘だ。嫌になるくらい、奥二重の目と、下だけ厚い唇が似ている。名前は――確か、ヒナノとかいったか。シャツの袖口から、真新しいリストバンドがのぞいて見える。
 たぶん、私はヒナノに対して申し訳ないと感じるべきなのだろう。だけど、私は欠陥人間なので、彼女に対してそんな気持ちはみじんも感じられないのだった。
 ヒナノのせいで北嶋と別れることになったが、そのことで恨んでいるわけでもない。彼女は、私にとって全く知らない子供。それだけだった。普通に街ですれ違うだけなら、きっと彼女に目を留めることもないだろう。
 それにしても、ヒナノは私から視線をそらそうとしない。こちらから目を背けるのもしゃくなので、じっとにらめっこにつきあっているのだが、五分も過ぎるとさすがに面倒くさくなってきた。
 私は雑誌を棚に戻すと、視線を彼女に固定したまま、どんどん近づいていった。ヒナノはびっくりしたようだったが、やはり逃げようともせず、私を睨み続けている。
「謝ってもらったって、絶対に許さない」
 私が口を開く前に、ヒナノはきっぱりと言った。髪に結ばれた黄色い大きなぼんぼりと、なすりつけられたように塗ってあるパールピンクのリップが、彼女の表情とは不釣合いに明るい。
「誰が謝るなんて言った?」
 謝るつもりなんて、全然なかった。私は甘ったれた子供が嫌いだ。甘やかされることが当然だとでも考えているような子供が、私にまで「甘やかし」を強制するのは、筋違いだし迷惑だ。
「私が憎いのなら、私を刺せばよかったのよ。刃物なんて自分に向けるもんじゃないんだから。あんたは十二歳なんだし、たいした罪にもならないわよ」
 そう言い捨てると、私はさっさと階下の食料品売場に向かった。周りで立ち読みしていたおばさんたちが、びっくりしたように――あるいは面白そうに私たちを見ていた。
 エスカレーターでちらりと振り返ると、真っ赤な顔をしたヒナノが、まだこちらを睨みつけていた。しかし、追って来るつもりはないようだった。



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